それは、まさに祝福じゃないですか。

ただ、どの歌が注目されて人に知られていくかは、作者も選ぶことができないので。選ばれている、みんながよく知っている歌が必ずしも好きな歌ってわけじゃないですよね。この歌は本当は好きじゃないですね。好きじゃなかったから歌集から落とそうとしたんです。でも、誰かに引用されるとか、とり上げられて褒められるって、すごく「選べない」ことなんだよね。だから、そこで他者の判断やその偶然性にチップを張るというのは、けっこう重要なことで、そういう偶然性を排除しちゃうと、新しい地名が全部「ナントカが丘」になっちゃうみたいな現象が起きたり、ペンネームに全部「月」っていう言葉が入ってくるみたいな現象が起きたり、人間の意識の幅ってあまりないんだよね。だから、子供の名付けの話で、出産後に、友だちが初めてお見舞いに来てくれて、その時、友だちがエリカの花を持ってきてくれて、その赤ちゃんが初めて見た花がエリカだったからえりかという名前にしたみたいなエピソードを聞くと、非常に腑に落ちるというか、そういう偶然性ですよね。それは、まさに祝福じゃないですか。そうすると、その子はそのあとエリカの花を見るたびに、自分が祝福されてこの世に生まれてきたっていうことを追認するということになる。人間はやっぱりそういう偶然性に守られないとまずいと思うんです。頭の中で考えたすごくかっこいい名前とかかっこいい地名が、逆に無意味でダサい感じがするのは、その偶然性に対する感度を欠いているからだという気がしますね。だから、表現の場合、どこまでも自己責任の追及というのもある反面、その偶然性に対するオープンマインド感がないといけないから、相反するベクトルが作業の中に要求されるということがある。


穂村弘 山田航『世界中が夕焼け』より