偶然の音楽 / ポール・オースター(柴田元幸 訳)

偶然の音楽

偶然の音楽


訳者あとがきより、引用メモ。

 ヨーロッパから移動してきた人々が作った国だという歴史を反映してか、アメリカ小説には「人は基本的に移動する」という暗黙の前提のようなものがある。たとえば二十世紀初頭の、アメリカの都市化・産業化が急速に進んでいった時代に書かれた小説には、中西部の田舎→中西部の都会(たとえばシカゴ)→東部の都会(ニューヨーク)という移動がしばしば出てくる。そうした作品を書いた作家自身も、しばしば同じパターンで移動し、ヘミングウェイにせよフィッツジェッルドにせよ、中西部から東部、さらにはヨーロッパへと、東向きに居場所を変えていった。
 しかし、もっと大きな流れになっているのは、やはりアメリカ建国の歴史と同じように、東から出発してやがては太平洋岸にたどり着く、西向きの運動だろう。『モヒカン族の最後』(1826)をはじめとするジェームズ・フェニモア・クーパーの一連の作品にはじまり、モナ・シンプソンの『ここではないどこかへ』(1986)まで、文明化を逃れるためでもいい、見果てぬ夢を遂げるためでもいい、理由は何であれとりあえず西へ動こうという思いは、アメリカ小説においてくり返し現れるモチーフである。(p.281-282)

 『偶然の音楽』のジム・ナッシュも、やはり東部から出発して北米大陸を旅する。が、その旅は、少なくともそのはじまりにおいては、完全に閉じた、自己閉塞的な旅だ。赤いサーブに乗って、バッハやモーツァルトヴェルディのテープを大音量でかけながら、ナッシュは毎日、ただひたすら車を走らせる。現代の自動車の性能をもってすれば、太平洋の岸辺までたどり着くにはほんの数日あれば足りる。もはやそこでは、西へ動くことの象徴的な意味は失われている。どこへ行くかはまったく問題ではない。移動は完全に自己目的化している。(p.282)

 だが結局のところ、オースターが『偶然の音楽』でめざしているのは、動くことの快感を描くこと自体ではない。『シティ・オヴ・グラス』でもそうだったように、本当の物語は、動くのをやめたところからはじまるのだ。(p.283)